2013年12月29日日曜日

32. 春道列樹

物部氏の一族。春道という姓も、列樹という名も、実に珍しい。趣のある名前で、現代の芸能人の名前にしても、おかしくない。

官位は六位と低かった。

32. やまかはにかぜのかけたるしがらみは

やまかはに かぜのかけたる しがらみは ながれもあへぬ もみじなりけり

滋賀の山を越える際に、詠んだ歌。

しがらみ(柵)は、川中に、水流をせき止めるために、木を組み合わせて作るもの。

この歌では、秋の終わり、川一面に散った紅葉を、その柵に見立てている。

自然の出来事を、人間の行う事に例える、典型的な歌の一つ。

31. 坂上是則

最初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂の末裔。三十六歌仙の一人。

蹴鞠にもすぐれ、醍醐天皇の前で、リフティングを206回続けて行って、その技を絶賛されたという。



31. あさぼらけありあけのつきとみるまてに

あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに よしののさとに ふれるしらゆき

雪明かりを、月の光と間違える、という趣意は、中国の漢詩にもあるという。おそらく、そこからヒントを得たのだろう。

それを、吉野の地を舞台として詠むことで、都から遠く、山の上にしんしんと降る雪を連想させている。

冒頭の、あさぼらけ、という言葉が、実にいい。

30. 壬生忠岑

壬生家は、甲斐の国造の一族であったという。下級の官人であったが、和歌にすぐれ、『古今和歌集』の選者となった。三十六歌仙の一人。

その子、壬生忠見も、三十六歌仙に選ばれている。

身分は低いが、歌が巧く、歌集の選者になるというパターンはお馴染みだ。

身分が低いから、歌に力を入れた、とも考えられるし、歌が巧いから、芸能担当のような役割で、官位の一人として組み入れられていた、とも考えられる。

30. ありあけのつれなくみえしわかれより

ありあけの つれなくみえし わかれより あかつきばかり うきものはなし

この歌集の選者といわれる、藤原定家は、後鳥羽上皇に『古今和歌集』における名家を問われ、迷うことなく、この歌を推したという。

まず、この歌を声を出して読むと、よどみなく、すっきりと読み切れる。純粋に、言葉の並びが美しい。

その意味は、ありあけ、あかつき、という自然の世界と、つれなく、うき、という人間の心情の世界が、一つの世界に融合している。

普通に読めば、つれないのは、恋の相手、と読めるが、定家は、有明の月が、つれなく見えた、という解釈をしていた。

いずれにしろ、決して楽しい歌ではなく、憂し、という感情を歌っている。

言葉の美しさ、自然と人間の融合、少しブルーな感情。それらが、わずか51文字の中に、見事に表現していることが、この歌を名歌としている要因なのだろう。

2013年12月28日土曜日

29. 凡河内躬恒

生没年はわかっていない。下級官人で、多くの地方職をこなしたという。

歌人としては有名で、紀貫之らとともに古今和歌集の選者を務めている。藤原兼輔の堤御殿に招かれていたメンバーの一人でもあった。

三十六歌仙の一人でもある。

29. こころあてにおらばやおらむはつしもの

こころあてに おらばやおらむ はつしもの おきまとはせる しらきくのはな

技巧的な歌だ。

菊を歌うようになったのは、中国の影響を受けて、古今集の時代からで、万葉集には菊を歌った歌はないという。

正岡子規は、この歌を、現実には、初霜で菊が見えなくなることはない、と写実の立場から厳しく批判した。この話を、歌の作者が聞いたならば、子規は歌の精神が何もわかっていないと、逆に返したことだろう。

菊と初霜を見間違える、という趣向は、中国の白楽天の歌にあるという。中国の漢詩が日本に伝わると、そこからのテーマの和歌への転用が多くなった。

晩秋の頃、早朝、菊の木に霜が降りていて、まるで花のようになっている、という場面を連想する。

白のイメージ。

28. 源宗于朝臣

源宗于朝臣とは、光源天皇の皇子、是忠親王の子で、官位に恵まれず、臣籍に下り、源氏姓を名乗った。

藤原氏が、宮中の要職を独占する時代にあっては、天皇につながる人物であっても、なかなか職には恵まれなかったのかもしれない。

そうした境遇を知ってこの歌を見ると、単に山里の風景を歌っただけの歌とは感じられなくなる。

28. やまざとはふゆぞさびしさまさりける

やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける ひとめもくさも かれぬとおもへば

実にシンプルに、冬の季節の山里の寂しい様子を歌っている。四季を通じて寂しいのだが、特に冬は、という部分が、”ぞ”に出ている。

人目も枯れ、草も枯れ、という部分に、その寂しさが凝縮されている。

人間と植物を、同じ視点で扱っているのは、この時代に共通の感覚なのだろう。

この歌を作った人物の境遇を知ると、山里というのは、実際の山里と、自らが置かれた境遇の二つの意味があるようにも思える。

27番の歌とは、そちらが滔々と流れる川を歌っているので、対比的にも見えるが、古都の瓶原を歌っているという意味では、共通する部分も感じられる。

この歌集の中でも、屈指の名句の一つだろう。

27. 中納言兼輔

紀貫之らと交流があった、当時の代表的な歌人。紫式部の曾祖父にあたる人物。

賀茂川の堤に邸宅があったので、堤中納言と呼ばれ、その元には、紀貫之らが訪れ、サロンのような存在だったという。

この歌は、実際は兼輔の歌ではなく、詠み人知らずの歌だったようだ。

この歌集には、そうした歌がいくつかある。果たして、選者は、詠み人知らずと知りながら、それでもその歌が素晴しいので採用したのか、別な意図があったのか。

27. みかのはらわきてながるるいづみがは

みかのはら わきてながるるいづみかわ いつみきとてか こひしかるらむ

瓶原とは、かつて聖武天皇が、一時的に恭仁京を置いた場所。この地を流れる泉川は、現在の木津川のことで、滔々と流れる川、というイメージで歌われている。

その川の名前と、いつ見たのだろうか、の”いつ”の部分をかけて、恋の思いを歌っている。

この恋は、かつて実際に見たことがある人か、まだ見たことがない人家で、解釈が別れている。

自分の思いを、滔々と流れる川のイメージに重ねあわせている。

瓶原、という地名を聞いて、当時の人々は、どのようなイメージを持ったのだろうか。ああ、あそこには、かつて短い間都があったなあ、という程度なのか、あるいは、聖武天皇という存在のことを、強く思ったのだろうか・・・

26. 貞信公

貞信公は、いわゆる諡名。藤原忠平。関白基経の子で、兄は、24番の歌の作者、菅原道真と政治的なライバルだった藤原時平の弟。

兄の時平が、道真の祟りで死んだ後、関白太政大臣の地位に付き、藤原氏の安定に大きな貢献をした。

24番の歌では、道真が同じ宇多上皇の行幸に同行した際に、紅葉を神に捧げているが、この歌では、息子の醍醐天皇のために歌っている。

学問の神で、理想的な政治姿勢を持つ道長と、あくまでも地上の権力にこだわる、忠平の違いを象徴するような内容になっているのが面白い。

26. をぐらやまみねのもみじばこころあらば

をぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなむ

上皇の大井川への行幸に同行した作者が、天皇になりかわって詠んだ歌。

上皇の前宇多天皇は、子の醍醐天皇に、美しい紅葉を見せたい、と望んだ。紅葉に対して、もう少し咲いていて欲しい、と願っている。

25番の歌と比べると、ある地のある植物を歌い、それを、別な場所にいる人物に思いを馳せる、という構造は同じだが、こちらの方は親子愛であり、より品のある歌になっている。

25. 三条右大臣

三条右大臣。京の三条に住んでいた、右大臣。背景を知らないと、いったい誰のことだか分からない。

藤原定方。父は、内大臣だった高藤。子に、44番の歌の作者である朝忠がいる。

醍醐天皇の時代に活躍し、紀貫之らの身分の低い歌人たちの、庇護者でもあった。

25. なにしおはばあうさかやまのさねかずら

なにしおはば あうさかやまのさねかずら ひとにしられで くるよしもがな

逢坂山に生えている真葛という植物の名前を使って、言葉遊びで、相手に恋の誘いをしている。

逢坂山から会う、真葛(さねかずら)から寝る、という言葉を連想させている。

葛はツル形の植物なので、男女の形を連想させ、よくよく考えて見ると、かなりキワドイ内容になっている。