2013年8月25日日曜日

16. 中納言行平

平城天皇の皇子、阿保親王の子で、弟の業平とともに、臣籍降下した。

須磨に流された時期もあったという。

天皇の孫であっても、地方に流されてしまう、そんな時代だった。

この歌を歌い、因幡に赴任してから、およそ2年余りで、再び都に戻ったという。

16. たちわかれいなばのやまのみねにおふる

たちわかれ いなばのやまの みねにおふる まつとしきかば いまかえりこむ

地方に赴任して行く際の、別れの歌。

いなば、という言葉に因幡と、その地にある稲羽山を、まつ、という言葉に待つ、と松を掛けている。

別れの悲しさを、こうした言葉の遊びで演出するのが、当時の貴族の、習慣だったのだろう。

藤原俊成は、この歌を懲り過ぎとして評価せず、その子の定家は、逆に、その故に評価したという。

15. 光孝天皇


第58代目の天皇。13番の歌の陽成天皇の次に、藤原基経によって、55歳という年齢で、天皇にさせられた。

政治を基経にまかせ、藤原氏による関白独占の始まりになった、と言われている。

本人は、いたって謙虚で、人徳に厚かったと言われている。

13番の歌の陽成天皇の歌と比べると、二人の性格が、より対照的に見える。

15. きみがためはるののにいでてわかなつむ

きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ

百人一首の中でも、屈指の名句の一つだろう。

言葉が流れるように並んでいて、まったく、不自然さを感じない。

今日から見ても、難しい、あるいは、わからない言葉も一切ない。

見方によっては、深みがない、味がないという、ということになるかもしれない。

若菜という春の言葉と、雪という冬の言葉が同時に登場し、季節の変わり目を、見事に表現している。

最初に春を出し、後に、冬を出しているのが、さらに効果的だ。

その最後の部分は、いわば”落ち”になっており、雪が降っている寒い中で、愛する人のために、若菜を摘んでいる、という情景が浮かび上がる。

2013年8月24日土曜日

14. 河原左大臣

河原左大臣とは、源融のこと。

嵯峨天皇の十二番目の皇子。臣籍に下り、源を称し、従一位左大臣まで登りつめた。

陽成天皇が即位し、藤原基経が摂政となったため、その地位を退いた。

東六条に、広大な河原院という屋敷を作り、東北の塩釜の風景をもした施設を作り、わざわ海から海水を運ばせて、塩を作ったという。

源氏物語の光源氏のモデルとも言われている。世阿弥の能『融』も、そこから題材を得ている。

14. みちのくのしのぶもぢすりたれゆえに

みちのくの しのぶもぢすり たれゆえに みだれそめにし われならなくに

陸奥の名産である、乱れ模様の染物と、自らの恋に乱れる気持ちを掛けて、心を乱すのは、自分のせいではなく、相手のせいだと、恋の相手を責めている。

13番目の歌と同じ、地方の名産を冒頭に登場させ、相手を恋する気持ちを、言葉遊びによって、間接的に、表現している。

しかし、印象は、こちらの方が柔らかい感じがする。

13. 陽成帝

わずか9才で、父の清和天皇を継いで天皇になりながら、奇行が多く、摂政の藤原基経によって、退位させられ、その後、60年にわたり、上皇として、生涯を送った。

清和源氏は、父の清和天皇ではなく、この陽成天皇の子供がその祖であるともいわれる。陽成天皇のマイナスなイメージを避けたためだともいう。

ややエキセントリックな感じを受ける歌は、そうした複雑な人物像をイメージさせる。

この歌は、宇多天皇の妹にあたる妃の一人、釣殿宮綏子内親王に贈られたもので、その後、二人は結婚している。

13. つくばねのみねよりおつるみなのかは

つくばねの みねよりおつる みなのかは こいぞつもりて ふちとなりつる

古代から歌垣がおこなわれていたという、筑波山を歌材としている。

そうした伝説を裏付けるような名前の男女川という地名を使い、そこに恋が積もって、淵になった、という言葉遊びをしている。

おそらく、本人は訪れたことがない、頭の中にある知識のみから詠まれた歌だが、そうした空想を歌うことで、自分の恋心を表している。

あるいは、そうした自分の恋心自体も、実体がなく、単なる歌、だけなのかもしれない。